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コラム「色即是空」

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山口の方言あれこれ(2014/12/1)
お年寄りA「Dさんが離婚しちゃったそ、あんたぁ知っちょるかね?」(Dさんが離婚したって、あなた知っていた?)

お年寄りB「知らんいぃね。あねいに仲がえかったせぇ、なーして別れちゃったそかね?」(知らないよ。あんなに仲が良かったのに何で別れたの?)

お年寄りC「あんたぁ顔色がぶちわりぃけど、どねえかあるそやないかね」(あなた顔色がすごく悪いけど、どこか調子が悪いんじゃないの)

お年寄りA「そねぇなことはないっちゃ。ゆんべおそうまで起きちょったけえやろう」(そんなことないよ。昨夜遅くまで起きていたせいだよ)

お年寄りB「そういやぁ薬がみてたけぇ、たいぎなけどこうてきちょかんにゃあ」(そういえば薬が無くなったから面倒くさいけど買ってこなくちゃ)

お年寄りC「うちのにいさまが買い物行くけぇ、ついでに言うちょっちゃげようか」(うちの息子〈家族の中の男性〉が買い物に行くからついでに頼んであげようか)
(以後もとりとめのない会話が続く……)

 このように山口の方言をあれこれ書いてみると、県のゆるキャラ『ちょるる』の名前の由来でもある「ちょる」につながるものが多い気がします。私も半世紀以上、この言葉を使って育ってきました。目上の人と話すときには標準語で話せるのは、山口の言葉があまりアクセントの強いものではないからかもしれません。
 山口のローカル番組で方言を紹介するコーナーがありました。そのとき解説を務める大学の先生が発声してみせる山口の方言は絶妙なもので、まさに山口のお年寄りが普段から使っているそれでした。

●阿部美知子 Michiko Abe
 1948年、愛知県でフランス人の父と日本人の母との間に生まれる。亡き夫から引き継いだ飲食店をたたんだ後の97年頃からうつ病を患い、現在は障害者手帳を持つ。東野圭吾や横山秀夫などのミステリー小説を読むのが趣味。阪神タイガースのファン。山口県内の福祉施設で生活している。


私と音楽~其の二~(2014/11/1)
 私が德永英明さんの曲に出会って25年くらいになります。初めて耳に入ってきた『レイニーブルー』。何と美しい詩とメロディと声でしょう。それを聴いた私はすぐにレコード店に走りベストアルバム『イントロ』を買い求めました。そしてジャケットなどの写真を見て、彼が八重歯の魅力的な今でいうところの「イケメン」である事を知ったのです。
 初めて行った山口市民会館での「ジャスティスコンサート」。オープニングで黒のフード付きのマントを着た彼が目の前に現れ曲が始まったらそのマントを脱ぎ捨て下から目の覚める様なうす紫のスーツが現れたのは今でも忘れられません。それから私は主に娘を伴っていける範囲のコンサート「山口」「徳山」「福岡」「広島」「松山」「倉敷」と足を運んだものです。
 特に一度広島であった時など、息子に当時の彼と同じメッシュを入れたヘアスタイルにさせて、私は和服を着て出かけました。さすがに目立ったのでしょう。ステージからこちらのほうへタオルを投げてもらったのですが、横の人にとられてしまいました。
 それから月日が流れ、彼はカバー曲を収録したアルバム『ヴォーカリスト』シリーズが大ヒット。今では紅白の常連歌手になっています。いつまでもあの透きとおるようなハイトーンを聴かせてもらいたいものです。


私と読書(2014/10/1)
 読書は私の趣味の一つです。幼い頃は『小公子』や『小公女』そして『幸福の王子』等の絵本をたくさん読んだ記憶があります。高校生のときには文学少女ぶって太宰治、芥川龍之介に夢中になったものです。今では、東野圭吾や横山秀夫の作品をよく読んでいます。
 今まで繰り返し読んだ作品が2作あります。一つは北杜夫の『楡家の人びと』。これは明治生まれの楡脳病院の院長である楡基一郎とその家族、使用人、患者の波乱万丈の物語です。もう一冊は水上勉の『飢餓海峡』。これは昭和20年に起きたあの悲惨な海難事故、洞爺丸沈没事件を題材とした作品です。
 ここのところ警察物や医者物を乱読していたのですが、最近になって久しぶりに純文学の作品を手にしました。文化勲章を受章した井上靖の「遠い海」です。新しい愛の出発と古い愛の再確認とを生み出す人間の不可思議な営為を描いた作品です。
 その中の描写のあまりの美しさに感嘆しました。「~英子は自分と幹史三郎との関係に気付いたのである。その関係は月光に照らされた氷河の一部のようなものにして、はっきりと英子の瞼に写ってきたのであった。氷河の表面はほうろう質の様につるつるしており月の光に冷たく青く濡れている。そこには暖かさというものは微塵もない」。さすが昭和を代表する大作家の作品だと思います。


ケアハウス(2014/9/1)
 ケアハウスとは軽費老人ホームのことで、基本65歳以上で自分の身のまわりのことが自分で出来るけど独居が困難と思われる人が入居できる福祉施設です。健康管理、食事、入浴、趣味教養活動、生活相談、在宅福祉サービスの利用、緊急時の対応が約束されています。
 私はくも膜下出血で倒れ九死に一生を得たことで、一人暮らしに不安を感じて入居したものの、入居者の平均年齢80歳に対して私は入居時63歳。初めは急に自分が年をとったように思えて落ち込み、退去のことばかり考えていました。でも今となっては入居して良かったと思っています。部屋は個室で届け出れば外出や外泊も可能。若い職員さんといまどきの話題で会話出来ることも楽しみの一つです。入居者の方たちの間では今では使わないような古い山口の方言や、空襲警報が怖かった、商店街で進駐軍に声をかけられたなどの、戦争中の体験話が飛び交います。
 食事を済ませたばかりなのに、「食事はまだかいね?」と言われたり、夜なのに「今は朝かいね?」などと聞かれたりするのは日常茶飯事。エレベーター内やホールでの“おもらし”も珍しくありません。最初は驚きましたが、自分の20年後、いや10年先のことを思えば、暖かい目で見られるようになりました。今日もロビーで“名月赤城山”とか“お富さん”のカラオケ合唱の声が響いています。私は部屋でヘビーメタルやロック、フォークを聴きながら、東野圭吾の文庫本を読んでいます。何か変?


性格・才能について(2014/8/1)
 性格や才能というものは、その人が持って生まれたものだと思います。確かに育った環境、本人の努力や変わろうと思う気持ちで、多少は良いほうへ向かうこともあるでしょう。たとえば、オリンピックでたくさんの選手が活躍し、日本のプロ野球選手が高額な契約金でメジャーリーグへ行くなどしています。また芸能・芸術関係でも優れた方がたくさんいらっしゃいます。そんな方々は、持って生まれた才能というものがあるのです。決して、努力だけでは無理ではないでしょうか。

 私は自分の性格は支離滅裂だと思っています。依頼心が強い、優柔不断、神経質かと思えば、天真爛漫と言われるところもある。長所か短所かわかりませんが、その時々で臨機応変に対処することは出来ます。もしも私に勇気とチャンスがあったら、演劇の世界に進んでいたかもしれません。実際、普段の生活でも演技(?)をしているように思うときもあります。にこやかにあいさつを交わし、談笑した後で一人になると心の中で舌を出し、相手を嘲笑しているようなところが……。

 周囲には多少責められても叱られても平気な人や、自分の考えがはっきり言えて、白黒堂々と出来る方が多いです。うらやましくもありますが、本当にそれが良いことなのかどうかはわかりません。


私と音楽(2014/7/1)
 私が生まれて初めて耳にした音楽は、手回し蓄音器から流れていた美空ひばりさんのLPレコードでした。おそらく私が3、4歳だったと思います。それから小学生時代はラジオから流れる歌謡曲、たとえば島倉千代子さんの曲などが好きで、よく口ずさんでいたものです。中学時代はアメリカンポップスに夢中になり、ブレンダ・リーやコニー・フランシスの曲の英語の歌詞にフリガナをつけてよく歌っていました。その頃、ビートルズが出現してみんなが大騒ぎしていましたが、私はあまり興味がありませんでした。

 それからグループサウンズの時代となり、ゴールデンカップスの曲が好きでした。私も結婚や育児に追われ、音楽から遠ざかっていましたが、息子と一緒にビデオを観ていてクィーンというイギリスのロックバンドの存在を知りました。

 ヴォーカルのフレディ・マーキュリーは若くして亡くなりましたが、心に強いインパクトが残りました。激しさの中に憂いを含んだ『ボヘミアン・ラプソディー』『ショー・マスト・ゴー・オン』がお気に入りです。私は民謡からクラシック、カンツォーネ、何でも好きですが、90年代に熱心に聴いた德永英明さんのことについては、また改めて書いてみたいと思います。


大相撲(2014/6/1)
“♪きんきしきしきし岸恵子 相撲の横綱千代の山 花を咲かせた若乃花 三人揃って三根山”。これは私が子どもの頃の手まり唄です。当時はプロ野球と同じくらい、大相撲に皆が夢中になっていました。私もラジオにかじりついて、必死で若乃花(初代)に声援を送っていたものです。

 それから時は流れて、角界は千代の富士の時代となり、亡くなった夫や当時小中学生だった二人の子どもも大相撲が大好きになり、初めて山口県萩市で行われた地方巡業に行って、本物の力士を見る機会に恵まれました。力士の髷を結うために使う“鬢付け油”の香りが漂い、力士が履く雪駄の軽やかな音が響く。風にはためく力士の幟に胸がときめき、目の前で本物の千代の富士を見たときは、夢ではないかと思い、いまだにあのウルフと呼ばれた、鋭い目と引き締まった褐色で艶のある肌が忘れられません。その後、家族で九州場所に通い、ついには戦前の大横綱双葉山の、大分にある生家まで見学に出向いたことは、今も良い思い出です。

 そして今、私は横綱白鵬こそが、現在の角界におけるいちばんの力士であると確信しています。入門当時は身長170cm、体重68kg。新弟子検査をクリアすることさえ危うかった彼が、本人の努力、天賦の資質、師匠である宮城野親方の指導で、心・技・体の備わった大横綱となったのでしょう。

 白鵬の仕切り、しなやかな取り口、本当に一幅の絵を観ているようです。大関に推挙されたときの口上、「大関の地位を汚さぬように、全身全霊を懸けて努力します」。それを実践している最高の横綱です。


絵画(2014/5/1)
 私は幼少の頃から絵を描くのが苦手でした。同級生が上手に描くスケッチ画などを見て、心から感動したものです。けれども、鑑賞するのは大好きでした。特に私の好きな画家は古典的教養とバロック精神に支えられたルーベンス、フォーブの巨匠と言われるフランスのブラマンク。日本画では気品高い女性像を描いた上村松園です。
ルーベンスの作品は山口県立美術館で見ましたが、畳一畳分くらいのサイズがある絵の前に立ったとき、光り輝くオーラで体が動かなかったのを覚えています。ブラマンクは時間つぶしで入った、やはり県立美術館で出会い、暗い色彩の使い方に魅了されてしまいました。1930年の『機関車、あるいは駅』という作品を見ていただけたら、私が魅了されたことが理解していただけるでしょう。
それから日本人の画家で最近、山口の小さなギャラリーで見た高木聰の作品、高木レッドと言われるだけあって、赤の使い方が感嘆の一言に尽きるほど美しく、「豊後万年山」なんかは彼の代表作ではないでしょうか。上村松園の描く女性、顔がいい、同じような美人画を描かれた某氏の作品と全く顔が違います。
最後にルーベンスの『キリスト昇架』。『フランダースの犬』のネロとパトラッシュが天に召される前に見た、涙のあふれる作品です。


鶴浜のおじさん(2014/4/1)
 小学4年生から高校受験の頃まで、親友のますみちゃんと近所の書道教室へ通っていました。先生の名前は鶴浜栄吉、号は摩哲、当時は60歳くらいだったと思います。私たちは先生のことを鶴浜のおじさんと呼んでいたものです。おじさんは当時、あばら家に「クロ」という犬と二人(?)だけの生活でした。私たちは肝心の書道よりもおじさんがいつも出してくれるお菓子が楽しみで通っていたようなものでした。おじさんはお菓子がないときは、暗い土間で味噌汁をつくってトーストを焼いてくれて、ますみちゃんとその取り合わせを「変なの!」と思いながらも、おいしくいただいていました。
おじさんは広島・呉の出身で、当時の池田勇人総理と友達だったという自慢話をして、一緒に写っているセピア色になった写真を宝物にしていました。その頃、私はペン習字の練習の折に、島崎藤村の存在を知り、なぜかその作品にすごく惹かれるようになりました。次の詩は、詩集「若菜集」からの一節です。

はるははなさき はなちりて きみがはかばに かゝるとも
なつはみだるゝ ほたるびの きみがはかばに とべるとも
あきはさみしき あきさめの きみがはかばに そゝぐとも
ふゆはましろに ゆきじもの きみがはかばに こほるとも

 私たちは練習の帰り、川でお互いの顔に墨を塗り合って遊ぶのも楽しみでした。ちなみにおじさんは、私の母にプロポーズをして見事に断られました。


生きる/(2014/3/1)
「なぜ生きる2」という本がベストセラーになっているそうです。私も読んでみたいと思いながら迷っています。ともかく、人間はなぜ生きるのかということを考え始めたのは、自分の年金に老齢加算がついて、介護保険証が届いたこの歳になってからです。思い返してみるに、私は自分が「幸せだった」と思う期間は、中学の3年間と子育てに追われて、専業主婦をしていた10年だけですから……。
 私が50歳で、うつ病を患って入院していたとき、主治医に訊かれました。「阿部さん、いま何を考えていますか」と。私は「(この病院の)10 階から飛び降りることです」と即答しました。主治医は表情一つ変えず、「阿部さんの遺体を見た二人の子どもさんの気持ちを考えなさい」とおっしゃいました。私はその後、日毎に病状が回復していきました。
 宮本輝氏の小説に『人はなぜ生まれてきたのかは、自分と縁のある人たちに歓びや幸福をもたらすためだ』という趣旨のくだりがありました。私にはそれが出来る人は神か聖者ではないかと思えるのですが、実際にはそういう方がいらっしゃるのでしょう。
 私はこれから、何年生きられるかわかりません。仮に平均寿命まで生きてあと20 年。私に何が出来るのか模索中ですが、平均寿命を過ぎても生きがいを持って生活しておられる方に問うてみたいと思う今日この頃です。


阪神タイガース/(2014/2/1)
 小学生の頃からプロ野球が好きでした。当時、私の住んでいた下関は大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)一色でしたが、私は“鉄腕稲尾”(稲尾和久投手)が在籍していた西鉄ライオンズのファンでした。 大人になってからは、自分が生まれた愛知県をホームグラウンドに持つ中日ドラゴンズのほうへ気が向いてしまいました。周囲の男の子はみんなジャイアンツの帽子をかぶっているのに、私は息子にブルーのドラゴンズの帽子をかぶせていました。
 時は流れ、9.11テロがあった2001年。ドラゴンズの監督だった星野仙一さんが、阪神タイガースの監督に就任するというニュースを聞いて、当時は星野ファンだった私はすぐにタイガースへの鞍替えを決めました。「猛虎会」(タイガースのファンクラブ)へ入会し、レプリカのユニフォームをはじめ、あらゆるグッズを取り揃えました。山口から甲子園は遠かったので、旧広島市民球場、マツダスタジアム、福岡ヤフードームへはよく通いました。この年齢になって、こんなに夢中になれることに出会えて、心からよかったと思っています。
 やはりテレビ観戦より、球場へ行くというのは温かい人とのふれあいがあります。ヒットが出れば、知らない人たちとメガホンをたたき合い、得点が入ればみんなで「六甲おろし」を歌います。野球音痴だった娘も今では私より野球に詳しくなっています。2人で阪神の勝利に酔って広島駅へ急いでいるとき、ユニフォーム姿の私たちに見ず知らずのサラリーマン風の方が「おめでとう!」と言いながらハイタッチしてくださったのでした。


きよちゃん(2014/1/1)
 私は小学生の頃から、地理が大好きでした。社会科の時間はいつも地図を眺めながら、一人で世界旅行をしていました。世界中で好きな国はたくさんありますが、ちょうどロシア(旧ソビエト連邦)に興味を持っていた時期がありました。
 確か、旧ソビエトが世界初の人工衛星を打ち上げた頃だった記憶があります。あまりはっきりしませんが、私の通っていた小学校に色白でクリクリした目。赤毛の天然パーマの女の子が転校してきました。田中のきよちゃんと言いました。近所の農家に、そこのお宅の親戚だったということで、ご両親とどこからか移り住んで来られたようでした。
 きよちゃんと私は何がきっかけだったのか、仲良くなって学校帰り、きよちゃんの家によく立ち寄ったものです。きよちゃんの部屋は屋根裏部屋で、部屋の中はロシア語の本や絵本がたくさんありました。きよちゃんはロシア語も出来て、ロシアの話もいろいろ聞かせてくれました。私はきよちゃんの部屋に行くのが楽しみで、夢を見ているみたいだったものです。
 そんなきよちゃんでしたが、一年も経たないうちに、どこかへまた転校していってしまいました。私はきよちゃんのプライベートな部分は何も知りませんでしたが、生き生きとしてロシアの話をしていたきよちゃんの顔が忘れられません。サハリン、シベリア鉄道、犬ぞり……。きよちゃんは今どこで何をしているのでしょうか?


私の昭和30年代(2013/12/1)
 私は小中高の9年間、母の実家である山口県下関市の田舎の地域で育ちました。祖父母は農業を営んでおり、牛小屋からはのどかな鳴き声が聞こえ、犬も鶏も、勝手気ままに庭を歩きまわっていました。現在もある、私の通った小学校は、当時レトロな雰囲気の木造校舎でした。確か私が5年生のときに、創立100周年の祝賀会があったくらいですから、今や相当歴史のある小学校だということになります。
 何はともあれ、私はゴシック建築(昔の西欧風建築)そのものの、講堂が大好きでした。春は桜、菜の花、レンゲが咲き乱れ、夏は青々とした水田の稲がさやさやと風に吹かれ。入道雲の下、アイスキャンディ屋さんが旗を立てて自転車でやってきたものです。秋で印象に残っていることといえば、町内総出の大運動会、虫の鳴き声の中、母が打ち直してくれた布団に包まれて寝たことです。
冬はやはり餅つきでしょう。ご近所から4、5軒が集まって、朝は暗いうちから餅米をかまどで蒸して、臼と杵でつき、餅とり粉がまかれた広い板の上でちぎっては、次々と丸い餅が出来上がっていきました。外は必ず真っ白な雪でした。
 昭和でいえば年代当時、あの頃は四季がはっきりしていました。そして折々の祭りや行事を大切にしていたのはもちろんですが、それぞれの季節に必ず、香りというのか、匂いがありました。私はいまだにその匂いを忘れられないのですが、近頃は残念ながらそれを感じることはありません。


社長令嬢(2013/11/1)
 私は昭和23年、愛知県瀬戸市で当時70歳だったフランス人の父と、33歳の日本人の母との子どもとして、この世に生を受けました。父は名古屋で貿易会社を経営しながら、大学でフランス語の講師もしていました。父には日本人の奥様がいらっしゃったのですが、熱心なカトリック信者だったがゆえに、離婚することが出来ませんでした。そんなわけで、私は両親と年老いた奥様と、4人で生活することになったのです。物心つくまで、私は奥様のことをお婆様だと思っていました。和服がよく似合う、凛とした印象の方でした。
 私の誕生日など、何かの折には、写真館へ出向いては、ドレス姿で写真を撮りました。また、毎週日曜日には家族で名古屋にある教会のミサへ行っていました。その帰りには、市内の栄町(現・中区栄)のレストランで、まだ日本全体が貧しかった昭和20年代に、ナイフとフォークを使って、洋食をいただいていました。
 そして、デパートでお人形を買ってもらうのが楽しみでした。デパートにあった、当時では珍しい水洗トイレの水が流れる音が、子ども心にとても怖かった記憶があります。
 父は私が学齢期に入ったら、フランスで教育を受けさせるつもりだったとのことですが、高齢だったため、私が5歳のときに天国へ召されました。それから私は、母の実家である山口県へ帰り、農家の子どもとなったのです。ワンピースに白のレースのソックス。エナメルの靴を履いて茶色がかったくせっ毛の私。それに対して、つぎはぎだらけのモンペを履いた周囲の子どもたち。最初はおたがいが珍しく、なじめなかったことは想像に難くないと思います。


(2013/10/1)
 私は、もし尊敬する人は誰かと訊かれたら、すぐに59歳という若さで亡くなった母と答えるでしょう。私の母は、瀬戸内海の小さな島の生まれで、 10人兄弟姉妹の真ん中くらいだったそうです。母の生まれた大正4年当時は、母の父、つまり私の祖父が手広く塩田(海水から塩を取り出す場所や施設)をやっていて裕福でもあり、母は当時では珍しく、女学校まで行かせてもらい、得意だった英語の知識を活かし、貿易会社へ就職しました。フランス人 のその会社の社長が、私の父です。
 父は私が5歳のとき、亡くなりました。母は私を連れて山口県下関市にあった実家に戻ったのでした。当時の下関は、半農半漁の田舎の町で、ましてや実家はすでに母の弟である長男の代となっており、母はずいぶん肩身の狭い思いをしたはずです。 母は周囲から勧められた再婚話にも耳を傾けることなく、昼夜黙々と働き、一人娘である私の成長を生きがいとしてくれていました。
 とても手先が 器用な人で、料理も編み物も玄人はだしでした。そして、石部金吉と言っていいほどの真面目さのせいもあったのでしょうか。59歳だった年の2月、 台所で料理中に脳出血で倒れ、あっけなくこの世を去ってしまいました。
 私は母に苦労はかけても、親孝行らしきことは何一つ出来ないままでした。母が亡くなった後で家を整理に行ったとき、台所には私と当時交際中だった夫が帰ってくるからと腕をふるっていた作りかけのハンバーグが。押し入れには隠すようにしまってあった手編みのベビー服。預金通帳には「自分の葬儀費用に」というには、あまりに高額な預金残高。母が親不孝ばかりだった私に残したものでした。


言の葉(2013/9/1)
 先日、私の元へやってきた長女とトラブルがありました。私が何気なく長女の体型のことについて、ある言葉を発して言及したのです。ところが長女は「ママのそういう言葉で、子どもの頃からずっと傷付いて育ってきたんよ!!」と言うではありませんか。私は一瞬訳がわからず、心が凍りついてしまいました。何で私がもうすぐ65歳、長女がもうすぐ36歳の今そんなことを……。なぜ早く言ってくれなかったの、と問う私に返ってきた言葉は、「言い出せないまま、心の中に蓄積されてきた」ということでした。
  親子の間だから笑って済まされるくらいに思い発した言葉。常識として、他人様には言うはずのない体のコンプレックス。私は長女に長期にわたって、精神的な虐待を続けていたのです。私は長女に謝り、「私はまだ、あと10年は生きたいから、もし失言したらそのときはすぐに言ってね」と、まだ凍りついた心のままで言いました。長女はもう一言、「にいやん(長男のこと)にはそういうことは言わなかった!」と指摘しました。
 私はまた驚き、なぜなのか考えました。長男が男だったからでしょうか。それとも長男自身が「自分にもオブウ(長女のこと)にも、そんなこと言うなよ!」という無言の警告を発していたからでしょうか。
  私はこのトラブルからフラッシュバックして、これまでのさまざまな言動を振り返り、何と愚かな母親だったかと反省させられました。21年前に旅立った夫が残してくれた大切な二人の子どもに、今はただ詫びることしか出来ない私です。本当に、本当にごめんなさいと。


広島(2013/8/1)
 私は広島という街が大好きです。子どもの頃は、広島は原爆が投下され、街は地獄絵さながらだったということくらいしか知りませんでした。それが後に、私がドラマのような体験をする街になるとは。そんなこと、夢にも思いませんでした。
  19歳の夏、私は生まれて初めて広島の土を踏みました。中学時代から交際していた男性に会うために。その人は高校を卒業してから働いていた職場をやめた後、ある暴力団組織の一員になっていました。男性のところを訪ねてから、私はそれが当然であるかのように、その組織の事務所の一部屋に住みながら、ファッションモデルとして働くようになりました。
 青畳の広間に黒の紋付き袴を着た強面(こわもて)の方々が、トップの方を上座にして、ずらりと並んで座っておられた様子が、今でも頭の中にはっきりインプットされています。そこはまさに、映画館で観たヤクザ映画そのものの世界でした。
 「手本引き」という、花札のような賭博をやっている場面も見ました。そしてそこへおられる皆さんの肌に描かれた美しい(?)絵の数々……。そんなところへ居ても、不思議なことに、恐いとは感じませんでした。そのうち、トップの方からお声がかかり、逃げるように広島駅から電車に飛び乗ったことを覚えています。あれから40年以上の月日が流れ、風の便りに私が愛した男性はお亡くなりになったと聞きました。
 私は今、プロ野球観戦で広島駅近くにあるマツダスタジアムへ行くことがいちばんの楽しみとなっています。八丁堀、紙屋町、流川……。広島ブルースが流れていた頃も今も、広島が大好きです。


霊というもの(2013/7/1)
 私は幽霊や霊魂、いわゆる「霊」というものの存在を、夫が亡くなるまでは信じていませんでした。しかし、その夫が亡くなった後、気のせいか私の身辺で、これは心霊現象ではないかと思えるような不思議なことが、多々起こるようになったのです。
  たとえば、夜、お風呂場から「ガラーン!」という音がするので行ってみると、何かが落ちたわけでもありませんでした。また、アイロンがけをしていると、何か懐かしい香りというのか、体臭のようなニオイがただよってくるのです。そのニオイは間違いなく、夫のそれでした。あるときは、長女と「仏像展」を見学して帰ってくると、体が重くて動けなくなってしまったこともあります。
  そんな中で、最も私が恐怖を感じたのは、夜間ではなく、朝の9時頃に襲った「金縛り」です。体の上に重たい何かが乗っている感じがして、苦しさのあまり、となりの部屋にいた長男を呼ぼうとしても声が出ません。ついには、誰かが私の髪の毛を、痛いほど強く引っ張り始めたのです。やっと金縛りが解けたときには、気を失ってしまいました。
  道を歩いていても、乗り物に乗っていても、ある決まった土地にさしかかると嫌な気分になってしまいます。そういう土地は複数あるのですが、山がある場所が多いように思います。また、最近では夜中にふと目覚めて、部屋にある仏壇の横の壁に、二体の火の玉が居たのには驚きました。床から体を起こし、じっと目を凝らすと、二体は交互に、上下にと動き始めました。その後、私は眠っていたのですが、これは単なる夢だったのでしょうか。
 ただ、私は子どものころから季節の移ろいや、自然現象に興味を持ち、人一倍「感じやすい」性質だったことは事実です。夫の死が、しばらく隠れていた、そうした私の一面を呼び戻した面はあるのかもしれません。


くも膜下出血(2013/6/1)
 私は現在、満64歳。バーテンダーだった主人は21年前の1992年、天国へ召されました。長男(阿部浩一アワプラジオ編集長)は37歳。東京で公私ともに忙しそうです。35歳の長女は縁あって、昨年秋に県内萩市へ嫁ぎました。私は現在暮らしている山口県山口市のケアハウスへ入居する前は、民間のアパートで一人暮らしをしていました。
 昨年2月の寒い朝、トイレから出て急に気分が悪くなり、手にひどいしびれを感じながら、体が崩れ落ちてしまいました。床を這いつくばって電話機までたどりついてそれをつかみ、自分で119番通報しました。助けを呼びながらも、ろれつが回っていなかったことでしょう。後は、「もうすぐ病院ですよ!」という声を聞いた以外、何も覚えていません。気が付いたら、暗い集中治療室の中、体のあちらこちらに管を刺されていました。集中治療室の中で、私自身が覚えているのは、自分が「ウルトラマンを見る!」「誰かが病院の壁をよじ登っている!」「奥で宴会をやっている」「若い男女の声がする」等々というような言葉を発したこと。そして、目の前で大手術が行われている幻覚を見て、なんだかすごい世界にいるようだと感じていたことでした。
 しかし症状が良くなって、集中治療室から通常の個室に移り、長女から聞かされた内容は驚くことばかり。長女の顔も、東京からかけつけた長男の顔もわからなかったとか。その上、自分で点滴を引き抜いて、ベッドの下へもぐり込んでいたなんて……。そうです。私はくも膜下出血だったのです。幸い、出血が少なく、1ヵ月で退院できたのは周りの方々のお力添えに加えて、私の悪運の強さもあったと思います。
 この経験から、私は一人暮らしに不安を感じるようになりました。これを機に、まだ老人ホームという年齢ではないのかもしれませんが、元々の病気のことなどもあって、入居者の方の平均年齢が80歳という、ケアハウスへ引っ越した次第であります。

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